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伊藤さぶろうの妄想

2009年01月15日 03:49

前世というものがあるのかどうか分からないが、近所に、マリー・アントワネットの生まれ変わりだ、と主張する無職の男がいた。
同じように無職だった頃は、よく公園のブランコに隣り合わせになり、夕方まで喋ったものだ。
誰も信じてくれないの、と女ことばでつぶやく彼の首には、ギロチンの跡だという傷跡がぐるりと一周している。
だけど縫合したあとがあるし、たぶん自分で切ったんだろう。泣くかも知れないから、言わなかったけど。
彼と初めて会ったのは、初夏で、わたしは、仕事を辞めたばかりだった。毎日が退屈で死にそうで、死なないために、いつもふらふら散歩していた。彼は公園のベンチに腰掛けていて、わたしが前を通りかかると、久し振りね、と言ったのだ。どこかで会いましたか、と聞くと、前世のあなたはあたしの使用人だったわ、あたし、マリー・アントワネットよ、おぼえてないの、と言った。演技をしているようには見えなかった。わたしは彼の隣に腰を降ろし、そうでしたか、とだけ言った。そこが始まりだった。
それから仲良くなって、手をつないだりした、セックスまではいかなかった、いやよ、女同士じゃない、と彼の方が拒んだ。手をひっこめると、彼は少し泣いた。辛い苦しい、痛い痛い、と言いながら。バカらしいと思いつつ、わたしもつられて少し泣いたのだった。

近所だったので、よく彼の部屋に行った。窓際に古ぼけたミシンが置いてあった。家の人には内緒で、ドレスを縫って、夜中にひそかに着たりしているそうだ。いいと思うよ、と言うと笑った。彼とわたしはよく笑った。たぶん、何の責任も負っていなかったからだろう。
彼の手首は綺麗だった。男じゃないみたいにすべすべしていた。よくこんなしみったれた町からは早く出ていきたいと言っていた。出て、それからどこへ行くつもりだったのか、あのとき聞けばよかったと、今になって思う。風が吹いていて、わたしは黙っていた。寡黙なのね、と彼が言って、それは、妙に耳に残る、ざらっとした声で、思わず彼の顔を見ると、悲しそうな顔をしていた。それでもわたしは、何も言えなかった。口を開いても、嘘しか言えないような気がした。
新しい仕事が見つかった時、一応、もう会えないかも知れない、でも時間ができたら会いに行くよ、と言いに行くと、彼はドレスを着て、何もかも分かっているような顔で、わたしと握手をし、来世でまた会いましょう、とだけ言った、ドレスはまるで似合ってなかった、滑稽だった。縫い目はじゃびじゃびしていて、無精ひげが生えていて、彼の眼鏡は脂のようなもので曇っていて、全然ゴージャスじゃない。
夕日が当たっていて、埃が舞っていて、妙に悲しかった。

それから、彼に会わない。
家に行ってもいつもいない。さぶろうはいまいません、と母親らしき人から言われる度、彼の名前はさぶろうだったんだ、と思う。門には「伊藤」という表札がかかっている。彼の部屋は二階なので、カーテンが、一ミリの隙間もなく、ぴったり閉まっているのが、路上からでもよく見える。
白い息を吐きながら、でも、呼ばない。なんと呼べばいいのか分からないからだ。死んだのかもしれないとちょっとだけ思う。あのすべすべした手首が眼前にまざまざとよみがえる。あそこに深く切り込みを入れて、フランス万歳とか叫びながら死んだのかもしれない。
だけど悲しくはない。なんだか、彼を好きだったのか嫌いだったのか、よく思い出せない。すこし嫌いだったかも知れない。けど、といつも思う。けど、の先に何が続くのかわからないまま。

立ちつくすだけのわたしの背中を冬の風が撫でてゆく。さらさら、と衣擦れのような音がして、主を失ったミシンが、ゆっくりと錆びついてゆく気配を感じる。けど。




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コメント

  1. ふじわら | URL | V4rYaZBU

    この詩、すきです。
    何か、大切なものを、置いてきてしまったような気がしました。

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